人を愛することが動機
先日、小学校5年生の私の息子が、学生服の第二ボタンを好きな女の子に渡したことに、家族の話題が盛り上がりました。
「第二ボタン」は、心臓に近い位置にあるので、「私のハート(心)をあげる」という意味で、好意を寄せている人に送るのだそうです。
そのような意味があることも知らずに、30年前の私も同じようにボタンを送っていたことを思い出しました。
人間は、誰もが自分が生きた証を残したいと思います。
それは、みんなに尊敬の眼差しで見られる偉業や、形として誰の目にも残るものだけを指すのではありません。
ヒーリングや人を癒すこともそうですし、例えば、恋愛も、人が生きた証拠になるのだろうと私は思うのです。
私たちは、簡単に手に入るようなものでは心から満足できなくて、簡単に手に入らないものほど記憶に残る「人間」なのですから。
「愛することによって失うものは何もない。
しかし、愛することを怖がっていたら、何も得られない」(バーバラ・デ・アンジェリス)
という言葉があります。
誰かを愛することは、綺麗ごとだけではないのです。
厳しく、勇気を試される恋愛もあれば、愛することで、心の痛みをともなうこともあります。
でも、恋人の二人の前にどのような困難が現れても、それは二人にとっての、愛を確かめるためのものにすぎないように、その愛の痛みや苦悩が人を熟成させることもあるのです。
心が下に位置している下心から始まった「恋」が、時が経って、心が真ん中に位置する真心を持った「愛」へとなっていくように、恋愛とは、移り変わる「心」と「心」のすり合わせや、「感情」のぶつかり合いであったりしますが、ときにそれは崇高なものに昇華することがあります。
本来、自分のことが一番好きであるはずの人間が、他者を自分より大切に思う時、本当の愛がそこに生まれるからです。
いつまでも「今」は続かないように、この一瞬ですら、次の瞬間には過去となってしまう。
そのように時が流れていくなかで、世の中も、人と人とのつながりも少しづつ変化していくなかで、想いを寄せることができる人を見つけた、巡り合いの奇跡というものを信じてみること。
見ることも会うこともできない。それでも愛おしく思う気持ち。
そのような恋愛があってもいいと思うのです。
最期に、あなたの心をあたたかくしてくれるものとなるのは、周りの人から見ると何が楽しいのかわからない「あなたが楽しい」恋愛なのかもしれないから。
笑っても、怒っても、同じ道を歩むのなら、笑っている方がいい。
この道をずっと歩んでいく運命なら、一人よりも二人がいい。
誰でもよかったわけではなく、あなたがいい。
そう思えるような、記憶に残るような、素敵な恋をしてください。
「まず知りあうこと
知りあえば
お互いに愛しあうようになるでしょう。
互いに愛しあえば
支えあうようになるでしょう。
もしほんとうに愛したいと願うなら
ゆるすことを知らなければなりません」
(マザー・テレサ)
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