ヒーリングから見えた世界
先日、龍神ヒーリングをされているお友達が、私のヒーリングを受けに、福岡市から来てくれました。
そばにいるだけで気持ちが優しくなるような、とてもほがらかなお方でした。
お話しをさせていただくなかで、私もたくさんの気づきをいただきました。
ヒーラーの方もそうですが、いろんな方とお会いして、分かち合う時間は私にとって、とても大切な時間。
自分一人が頂を極めても、その気づきを多くの人と分かち合うことができなければ、それは私の中で達成とは言えないからです。
誰もが、日々、継続している事から新しい価値観をいただいたり、学びをいただいているように、私もヒーリングをすることで見ることができた景色というものがあります。
それは、ヒーラーである前に、人間としてどう在るかということ。
力が強いとか、すごい人という以前に、まず人として、その在り方が健全であるかということ。
ヒーリングとは、相手と私の、今の「価値観」と「価値観」、これまでの「生き方」と「生き方」をすり合わせることでもあるからです。
「癒す」というギリシャ語には、二つの言葉があります。
一つは相手の存在をじっと見ること=セラぺウォー。
これは英語のセラピー(治療)の語源となったものです。
もう一つは、相手の存在を心に留める、仕えること=ソーゾー。
私たちは、「仕える」ということを「損する」というように受け止めがちですが、「仕える」ということは「与える」ということ。
みんなに与える。これが癒しの姿であって、人としての、本当の無条件の愛の気持ちです。
そして、愛するという気持ちは、感情だけでは足りません。
「その人の心を得るために、その人のようになりました」(聖パウロ)
という言葉のとおり、愛とはその人への迎合ではありません。その人への優しさなのです。
大切なことは、受け入れてくれなくても、その人の心をわかろうとする、ということ。
この世界での、「不幸なこと」とは、誰からも必要とされていない、愛されていないと思う心のこと。
「貧しいこと」とは、お金がないことや着るもの、食べるものがないことではありません。
本当の貧しさは、心のなかにあるものなのです。
では、この世界では、何をもって豊かとするのでしょうか。
この豊かになった日本のなかで、豊かさゆえに寂しさを抱えている人がたくさんいます。
そのような人の救いとなるものは、お金や物ではなく、共感の優しさなのです。
「優しい言葉をかけるのには、お金も時間も要りません。
にもかかわらず、優しい言葉は多くのことをなしえます」(パスカル)
という言葉があります。
お金や時間をかけたものだけが意味を持ち、相手に喜ばれるとは限りません。
気持ちのこもった優しい言葉は、勇気や自信を与えて、心を落ち着かせる道しるべになります。
言葉を大切にすること。
言葉は人を楽しく悲しくさせ、喜ばせ苦しめて、幸福にさせ不幸にさせることができるのです。
言葉を増やして、話す時間を増やし、相手を理解するための努力をすること。
そこには、相手をいたわろうとする態度、やさしさがふくまれています。
それは、ヒーリングや癒しのワークをしている方々だけのものではなく、人間である私たち誰もができることです。
最初は、人に対する関心から始まって、それから、ほんの少しだけ自分を犠牲にして、人の役に立ってみる。分かち合うこと。
周囲の人々に人生の尊さと、生きる意欲をわが身をもって教えること。
それが、あなた自身を愛すること、あなたの人生を愛することにもつながるのです。
そのような「無縁の慈悲」の連鎖が、人と人をつなげていきますように。
それが、私の願いです。
この願いが、誰かの心を少しでも照らせますように。
「和は、ただ黙っているだけではやってこない。
和をつくりだすためには、自分の内面が純粋であることを追い求めなければならない。
和を求めるとは、敵意を捨てること。
他者の最善を願う純粋な愛だけがそれを可能にする。
ゆえに、和を求めることは、愛を求めることである。
そして愛を求める心は神を見い出す。
なぜなら、神は愛だからだ」
(新約聖書 へブル人への手紙12章14節)
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