「出会い」と「ターニングポイント」
人生の流れが変わる時のことを、「人生のターニングポイント」と呼びます。
それは、偶然の出来事や就職・転職・結婚・出産などの出来事、環境・価値観が変わること、自分の決意など、いろんな要因によって起こされますが、その中に「人との出会い」というものもあります。
「人を待ち、時を待つ」という言葉のとおり、いろんな方と出逢うことで、自信と好循環が生まれて、自分の人生を変えることがあります。
どんな人との出逢いも、一生に一度の出逢いと思えば、かける言葉や接し方が、丁寧に誠実になって、出逢えたことに感謝の気持ちもわいてきます。
人間関係に悩み、人が嫌になったり、人との出逢いを避けるようになってしまう時もありますが、人との関わりの中でこそ、救われることがあります。
出逢いによって救われることがあります。
そして、一人で生きているような気がしても、「あなたの喜びを喜んでくれる他人」が必ずいるのです。
大切なことは、自分自身に対する誠実さと、他人に対する優しさをもって、自分ばかりを見ずに、目の前の人に目を向けて、その人に対してどのような心で向き合うかということ。
そのような人は孤立しません。
必ず仲間がいるのです。
お互いに心を開き、調和のとれた関係が成り立っていることを「和」といい、その状況で取り交わされるコミュニケーションは、必然的に「礼」にかなったものになっているからです。
人の欠点をあげつらうのではなく、まず人を信じて包み込むこと。
そうすれば、人間関係は自然に楽になります。
思いやりをもって接するのは、「大切な人だから」ではなく、あなたが誰に対しても、丁寧で誠実で、まごころという純粋な気持ちを心の奥に持っているからです。
大切なことは、人に何をみるかということ。
人間には、物事の道理を考えたり、その道理に従って判断したり行動したりする能力、「理性」というものが備わっています。
それは、正しいものの見方、考え方をするということです。
「正しい」とは、自分と他人の区別がない、平等な観点に立つということ。
つまり、慈悲心に立脚したもの。
「正しくない」とは、自己に執着し、欲と迷いに立ったものです。
人は、人を完全に正しく判断する、裁く、ジャッジすることはできません。
それができるのは、神様だけなのです。
だから、人があなたについて何を言っても、どんな評価をしても、気にすることはないのです。
人をジャッジする前に、まず自らを愚かであると気づく大切さを持つこと。
良寛禅師は自分のことを「大愚(たいぐ)」と表現し、法然は「愚痴の法然坊」、親鸞は「愚禿(ぐとく)」、最澄は「愚の中の極愚」とそれぞれ称しました。
私も、これからもどんな苦労や逆境を乗り越えていくとしても、修行や努力の跡を見せずに、淡々とした心境でいたいと思う。
どんな人やものごとに出会っても、静観して、そこに本質的なものを見出していく心の作業を続けていきたいと思う。
善く生きること、美しく生きることを選択していく先に、きっと人生のターニングポイントが待っていると信じているからです。
「天にありては星、
地にありては花、
人にありては愛、
これ世に美しきものの
最たらずや」
(高山樗牛)
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